「いい加減切ったら?」
そう言って指差されたのは、ヘムラーの長めの黒髪だ。 祖国を追放されてから半年になる、最後に髪を切ったのはいつだったか。 ヘムラーよりも更に長いブロンドの髪をもつステッラは、 うんざりするような顔で彼を見ているが、彼と違って彼女は きっちりとひとつに結い上げ、幾分かは涼しそうだった。 日が暮れかけてきたとはいえ、それでも外はうだるような暑さだ。 たとえ本人でなくとも伸びっぱなしの黒髪を見ているだけで暑さが増してくる。 「なんなら、あたしが切ってやってもいいわよ。感謝しなさい」 勿論彼自身も暑さは感じていた、鬱陶しさもだ。しかし、 「いや、いい…」 「…あら、遠慮しなくていいのよ?」 元々気は進まなかったのだが折角の好意を断られてステッラも意地になった、 声音が刺々しくなっている。拒むヘムラーを無視して強行するつもりだ。 「よせ、さわるな」 「いいから任せなさいよ!」 無理矢理彼の頭を捉え髪を掴んだ。 「やめろ!」 と、そこで彼女の動きが止まった。 「……」 「……」 無言で髪から手を離すとステッラは部屋から出て行ってしまった。 あとにはヘムラー一人が残された。 「なに、あれ」 どんなに暑い夏場でもよく見知っているあの髪型のままだった。 他人の髪型などどうでもいい、特にヘムラーなんて一緒に立っていて こちらが恥を欠かないのであれば余計にそうだ。 しかし、今まで気にもとめなかったのだが、一目で合点がいった。 顎にかかるまでの長い横髪……… あれは彼の頬にある大きな縦傷を隠す為に伸ばされていたのだ。 全く予想してなかった事実を目の当たりにして、 ステッラはひどく狼狽してしまい思わず逃げ出してしまったのだった。 部屋を飛び出したはいいものの特にあてもなく、こうして今 ただ歩き回る羽目になっている…。 (あんなの、知らない) 彼の部下として何年もの間一緒にいたが、あんな傷痕を見たのは初めてだ。 不本意ながら体の関係を持った事も幾度となくある。それ程の間柄ではあったが、 今の今まで全く気付かなかった。 (…いつ付いた傷なのかしら) パッと見だけでも古そうな傷痕である事は十分分かった。 (一体いつの…) 彼女が彼の下に配属された時には既に今と変わらないヘムラーだった。 それでも一応は出来る限りの記憶を思い起こす……… やはりそんな傷が付くような戦闘も出来事もなかったはずだ。 思い出した事といえば、駄目な上官の尻拭いに雑用とそんな事ばかりだった。 (余計な、嫌な事まで思い出しちゃったわ…) それでは、いつの傷なのか。 15年前に祖国であるアクタ共和国(当時は王国)では、クーデターが起こった。 首謀者はルチ将軍。16年前に突如として現れ、その驚くべき知能指数で 軍の将軍にまで一挙にのし上がった人物だ(実際は人間ではなかったのだが)。 ステッラは、その当時の様子を描いた絵を見た事が有る。 銃を突き付けられた国王、そして片手に銃をもう片手で軍旗を振りかざしている ヘムラーの絵だ。将軍に取り入れられ異例のスピード出世を遂げた彼は 当時若輩ながらも前線司令官だったようだ。いや、若かったからこそ 向上心と野心があり、ルチ将軍の計画に自ら進んで参加したのだ。 クーデターが成功した後も、ルチの独裁政治に反対する人々による テロ活動のために数年間は国内はゴタゴタしていた。それを鎮圧する為にも 彼は何度も戦場で指揮を取っていただろう。そういえば、将軍が失脚する寸前も 隣国に攻め入る為に頻繁に演習をしていた。実際に目の前で見た事はなかったが、 普段の駄目さ加減が信じられない程、指揮官としての彼は優秀らしかった。 そして、考えうるに傷痕はその当時のものなのだろう。 逆に、ステッラには実戦での経験がない。あるといえば、権力抗争の果てに 起こった内戦の、あの茶番劇で短期間ヘムラー相手にドンパチやったくらいだ。 次第に熾烈にはなったが攻防は一進一退を極め、結局あの爆発が起こるまで 決着が付かなかった。だが、今考えるとあの結果にどうにも納得いかない。 もっと早く決着はついていたのではないか。 勿論、ステッラは勝つ気ではいた。しかし、それは彼も同じだった。 デスクワークがメインで実戦経験のないステッラと、15年前から前線司令官として 何度も戦場に出たヘムラー。どちらが勝つかなんて分かりきった事だ。 (もしかして、) 「…手加減されてた?」 腹だたしさが込み上げてくる。 「バカにして!」 文句を言ってやろう。殺してやるだの物騒な事を言っていたけど どこか甘く見ていて、だから真面目にやらなかったんでしょう? 「一発殴らなきゃ気が済まないじゃない」 ヘムラーは寝ていた。夜もふけ他にやる事もなくあの後すぐ寝てしまったのだろう。 間抜けな寝顔にステッラは拍子抜けしてしまった。思わずため息をつく… と、同時にふと気が付く。 アレをよく見ておくなら今のうちじゃないか。 さっきは驚いて一瞬見ただけだったけど……。 その顔がよく見えるようにステッラはベットに腰かけた。 そして、彼を起こさないように髪をかきわけてあの傷痕を、今度はじっくりと眺める。 青白い肌にハッキリを刻まれたそれは、未だ生々しく己の存在を嫌という程主張している。 傷は男の勲章とよく言うが、ヘムラーが隠したがる訳だ。あまり見目の良いものではない。 そっと触れてみると、彼は少し身じろぎしたが起きる様子はなく、 ステッラはそのまま行為を続けた。 (何の傷なのかしら…刺し傷?それとも銃弾?) いつかの、戦場に立っていた若い士官の姿が不意にステッラの脳裏に浮かびあがる。 ああ、そうだ。 絵だけじゃない、私はあの時実際にヘムラーを見たのだ。 本当はあんなに奇麗なものじゃない、だいたいあの絵はかなり後に描かれたものだ。 そう、もっと醜く酷い惨状で………とても恐ろしかった事を覚えている。 すくんで動けなかった私を見つけた彼は、泥と血にまみれながらも 手を差し出して言ったのだ、大丈夫かと。 そして、すまないとも。 朧げだった記憶が次第に鮮明に蘇ってくる。 運悪く戦闘にまきこまれてしまった少女を少しでも怖がらせまいと 申し訳なさそうに微笑んでいた彼。当時まだ髪は短く、露になっていた その左頬からは痛々しく血が流れていた。 (だから、私は軍人になったんだわ…) 『安心していい、もうすぐ終わる』 そう言って走り去った彼の背を追いかけて。 (あれから、何人の人を泣かせたの?) 全てを企てたのはルチ将軍だ。しかし、 恨みの矛先は前線に立つ彼に対しても向けられたのではないか。 ヘムラーは、確かに人を殺めている。 (思えばアンタも可哀相な人よね) 彼の罪の証を指でなぞりつづける。 大勢の人の怨恨を一身に受けて何を思った? (ほんとうに、かわいそうなひと) でも、同情なんてしてやらないから。 軽く口付けた後、母犬が子にそうするように傷を舐めあげた。 「なに…してる…」 さすがのヘムラーも目が覚めたようだ。 「…誘って、いるのか?」 起き抜けで頭が回らないのか辿々しい。 「冗談言わないで」 「残念、だな………」 期待もしなかっただろうに、深く息を吐くとヘムラーは目を閉じた。 「下らない事言ってないで早く寝れば?」 ステッラはまた頬の傷を撫でた。 「そんなに気になるか?」 「物珍しいだけよ」 「他人の心配より、自分の心配をした方がいい」 「…何の事?」 額の髪をかきあげられて傷痕を確認される。 あの時の、爆発によって内戦が終わったあの日についたステッラの傷だ。 ヘムラーのそれよりは遥かにマシだが、そう深手ではなかった割に数ヶ月経った今も まだ薄く痕が残っている。 (アンタの気にする事じゃないじゃない…) 互いに相手を嫌ってる事などようく知っている。なのに、今もこうして 慰めるように触れあっている。どうして…答えが見つかる前にステッラは 考えるのを止めた。 (分かったからってどうだって言うのよ) 本当は恐いだけなのかもしれない。 ヘムラーの手が額から頬へと移された。 寝ぼけているようにも見えるが、しっかりとした手つきでただただ頬を撫でている。 愛撫にも似たそれをステッラは甘んじて受けた。 「気が変わったわ」 ステッラはこの男が嫌いだ、ヘムラーもステッラが嫌いだ。 「アンタの言う通り誘ってやってもいいわよ」 明日になればきっとまた些細な下らない事で罵りあい喧嘩をするのだろう。 (そう、だから) 今だけは。 (うんと甘やかせてあげる) 戻 |